三権の上に存在するもの
投稿者: 成山 投稿日時: 2009/04/01 14:32:44
三権分立の上に在するものは云わずもながですが国民です。
概念としてその通りと思いますが、上に立つ(権力を持って)と云う事が法制度上で規定または準備されていなければ意味が無いし、上に立っての行為が具体的な形で三権に効力を及ぼすことができなければ、法制度に欠陥があると云えましょう。
現在、三権の「上に立つ」制度に「選挙」があるように見えますが、これは皆様ご存じのごとく、必ずしも「具体的な形で三権に効力を及ぼしている」ように見えません。但し、三権側に立つものにとっては心地よい影響を及ぼしているかと思います。
これを改革する案として司法に「陪審制度」を導入する事が一案と思います。
「民事」の争点として「陪審制度」があるなら、争点の論拠となる「法」が「陪審員」の評決対象になる事があり得ます。なぜなら「法」がおかしいとして訴訟の対象にできるからです。
その訴訟に関して「法」がおかしいとして訴訟を起こした方(複数可)は、「陪審員(普通の国民)」にそのおかしさを説明する事ができ、結果、「おかしい」と「陪審員」が評決したなら、「法」を変える必要が生まれます。これが普通の国民による三権への権力の行使と云えます。
少なくとも、このような具体的な権力を我々国民が持つことができなければ三権の上に立つ等はとてもじゃないが絵に描いた餅です。国民の大多数が各種の選挙権を行使してきた結果が現在の我が国の社会状況です。
あしげく云うならあたかも三権の正当性の根拠を「選挙」に於き、「選挙」で選ばれればすなわち正当であるがごとき振る舞いの結果、「政治資金規正法違反」等多々ある違反を行い、再度「選挙」で選ばれればそれを「正当性」の根拠とし「みそぎが済んだ」等と済ましていたりします。
「選挙」で選んだは国民だからその国民自体に問題ありと云う事もよく云われますが、選ぶ方だって「選んだ者」が悪さをする(目に見えない悪さを含め)とは思っていないし、その悪業を選挙民に転嫁する考えはとてもじゃないが納得できない。
従い、選挙以外に何らかの具体的な権力を国民が持たない限り現状がよりよい方に変化しないように思います。
陪審制度以外に公務員一般を監視するために江戸時代にあった「目付」を導入すべきでしょう。「目付」は幕府とか藩の組織構成員の監視役であり庶民の監視と異なります(庶民の監視役は例えば町奉行などです)。
現在、検察、警察の組織はありますが、彼らは自組織、司法、行政、議会等の監視に熱心と思えません。これらを専門の監視する「目付」が絶対に必要と思います。

2009/4/2 木曜日 at 4:17 AM
理論上は三権分立は理想的な仕組みですが、実質機能していないから、その通りです。立法府と行政府の事実上の執行者は霞ヶ関の官僚であり、法律の専門家です。本来ならば政治家に委ねられるのですが、何年もそのポストにいるわけではありません。何十年も立法、行政を担当しているわけですから、かないっこありません。今問題になってる検察も法務省の行政機関でありながら、司法の立場でもあります。そうすると、政治家は官僚の上に乗っかり、胡坐をかいている状態に見えます。陪審員(裁判員制度)制度は刑事事件ならば、参加することは意義がありますが、どうでしょう。司法を監視すとなると三権分立が成り立たなくなります。裁判所はあくまでも、立法府が作った法律に基づき審理する権限しかありません。ですから、胡坐をかくような国会議員や政党は役割を果たしていないも同然です。そのために国民の一票が重要になるのです。国民が参加できる機関を設置することも否定はしませんが、それなりの専門知識がないと意味を持たなくなります。コメントされている気持ちすごく分かります。行政の監視として市民オンブズマンが訴訟しているケースもありますが、法律の問題はかなり高いハードルですし、国会議員はそのために選出されるわけですから理不尽は禁じ得ませんね。すみません、この程度のコメントしかできません。
2009/4/3 金曜日 at 2:03 PM
@ 源五郎:
三権分立は「権力」の構造を示しているのであって、「権力」の「監視」をどのようにするかということは別次元(「権力」の上にあるもの)の仕組みと思っています。この仕組みの一つが「選挙」と思いますが、選挙は「立法」権を持つ権力者を選ぶ具体的な方法であり、選挙民(国民の部分)が直接的に「司法」と「行政」の権力とそれを持つ権力者を選ぶ仕組みでありません。従い、「司法」と「行政」の監視は三権の相互作用で抑止されるということでしょうが、これがうまく機能していない(建前上は機能しているが、実質的に機能不全に陥っている)。今は「行政」が最大権力保持者と思われます。なぜなら、三権の予算は実質的に「行政」が決定しているからです。国とは、端的に云えば、1.領土が定まっている(地勢的な領域)。2.領土に人々が恒久的に属している。3.領域およびそれ属する人々を排他的に統治する物理的な権力がある。、と云う程度と思います。問題は3の「権力」を誰が持つか、その誰をどのような方法で選ぶか、選んだ権力を持つ者をどのように監視するか、が重要な事柄と思います。日本の歴史をみるに(日本に限らず)は最初の「権力」は武力で取得した者になってそれが統治してきています(一旦、権力の所属が明確になれば「武力」を伴う権力の争奪は起こらずに最初の権力所属権が長らく継続してきている)。日本国誕生(西暦668年)から明治維新まで同じです。第二時大戦後は米国等の「武力」により外部から「領土」を確定されて、「権力」に関する事柄(誰、選び方)を導入(強制)して現在に至っている。問題は「権力」の監視に関して米国等は押しつけなかったし教えなかったし知らぬふりをしていたと云う事です。米国は「権力」の監視に関して憲法で国民が「銃」を持つ事を認めているようですし(「権力」が人々に対して横暴である場合は人々が持つ「銃」でその「権力」を倒すことを許している)、あらゆる訴訟(民事、刑事を問わず)を陪審で評決する事(人々が有罪または無罪を決定する)を選択できるようにしています。この二点だけでも「権力」を監視する「権力(能力)」を人々が持っていると云えます。議員とか官僚(検察官僚を含め)の横暴が叫ばれていますが、それら「権力」を保持し行使する人々を監視する「権力」または「仕組み」が我が国において弱く(選挙とか情報公開要求訴訟程度)てないも同然なので、「権力」者(議員、高級官僚も含め)の横暴を止めることができないと思っています。